80年代 アイドル 松田聖子 懐かしい♪

1997年 4月8日 カトリック系の久留米信愛女学院高等学校に入学。

ジャンパースカートとボレロの制服に憧れ、父親も娘を淑やかなお嬢さんに育てたいという

方針でこの高校に決まった

キリスト教研究部に入部し、聖書の勉強に勤しむ

行事の度に皆の前で聖書を読む「女神」という役職(各学年で1人ずつ)に選出される

大ファンの郷ひろみのコンサートが福岡で行われる度に観に行き、歌手に憧れるようになる

高校入学まもない春、福岡開催のテイチク新人歌手オーディションに応募し、

桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌うが二次審査で落選。

8月には第二回ホリプロタレントスカウトキャラバン九州大会にも応募するが書類選考の

第一次審査で落選。この時一緒に応募した友人は一次審査に合格したものの大会直前に

扁桃腺手術をして歌えなくなったため、法子(聖子)がフォロー役で急遽ピンクレディーの曲で

コンビを組み出場した。2人は最終審査の5組に残ったが優勝できなかった

高校2年となる1978年 CBSソニーと集英社「セブンティーン」が主催する

「ミス・セブンティーンコンテスト」九州地区大会に桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を

録音したテープを送り予選合格。歌手になりたいという動機以外の応募理由には、

優勝特典が「アメリカ西海岸のディズニーランドにご招待」で、「大好きなミッキーマウスに会える」ということと、全国大会のゲスト審査員が憧れの郷ひろみであったことである。

そして4月に福岡市民会館で行われた九州地区大会で優勝

しかし、両親には内緒で応募していたため、コンテスト当日は「大好きな歌手に会いに行く」と

嘘をつき母親に会場の福岡市民会館まで送ってもらった。母親は聖子と別れて買い物に行くが、

買い物を終えて会場に入ってみると聖子がステージ上で歌っていた。

九州地区大会で優勝し全国大会への切符をつかんだものの、

公務員で厳格な父親の承諾を得られず全国大会は辞退するが、

九州地区で優勝した法子の歌声を聴いたCBSソニー制作部・若松宗雄は「この子は絶対に売れる」と

確信し、法子をプロデビューさせようとスカウトする

若松は聖子の歌声を初めて聴いた時のショックを「まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと、

どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃でした」と語っている。

法子の芸能界入りは、学校の規則や父親の反対により既に断念されていたが、

諦めきれなかった若松は久留米の実家まで足を運び法子の両親に直談判するが、

それでも父親を説得することはできなかった(そのため聖子のデビューは当時のアイドルとしては

やや遅い年齢となる)。そんな中、法子は若松の紹介で東京音楽学院九州校(渡辺プロ系列)に

通う

渡辺プロの九州支部長の説得により父親がやっと承諾するが、東京の渡辺プロ本社は、

送られたデモテープをあまり重視せず、「この娘は、ガニ股である。

ガニ股はテレビ映りがよくない。舞台でも問題がある」との理由で、

スタイルの悪いO脚の法子の写真を見て不採用とした

1979年5月、若松がサンミュージックプロダクション社長の相澤秀禎に直訴するも

相澤は一旦保留。若松は面倒見の良い相澤の事務所に預けたかったという。

法子がサンミュージックの面接を受けに福岡から上京した時は、

丁度出張で出向くということもあり父親が一緒に付き添って行った。

5日ほど滞在して父親が帰郷する日、聖子は寂しさのあまり泣きだしてしまい、

見かねた父親が「そんなに悲しいなら一緒に帰ろう」と言うが、両親の反対を押し切ってまで

来たのだから頑張ってやってみようと意志を貫いたという。

6月にサンミュージックの事務所に初めてやってきた法子を見た当時の社長・相澤は、

田舎から上京してきたばかりで垢抜けず爽やかでもないという印象を持ち、

男性スタッフも同様に興味を持たなかったが、直接歌唱を聴いた幹部社員で、

音楽プロデューサーとして信用されていた女性スタッフが聖子を熱烈に推したことで

採用が決定し契約することになった

法子は、社長から来年3月の卒業後に来るように告げられるが、7月、卒業を待たずに高校を中退し

歌手デビューのため単身上京。その行動力と熱意に押された相澤は法子を寮に住まわせ堀越高等学校に

転入させた。当時のサンミュージックは、新人アイドルとして売り出す予定の中山圭子に

注力していたため、法子がすぐに歌手デビューする予定はなかった。

しかし、翌年にはその方針が変わり、それによって当時のトップアイドルであった山口百恵の

引退という、時代の転換期である1980年にデビューすることとなる

プロダクションが用意した「新田明子」と「松田聖子」という芸名から、

法子は「松田聖子」を選んだ。ちなみに「新田明子」という名は同プロ所属の中山圭子のため

考えられてボツになったものだった(そのことを中山圭子は法子には言わなかったという)

芸名については、当初ほぼ「新田明子」になる予定であったが、あまりパッとしない印象であり

本人も気に入らなかったため、社長の相澤が当時凝っていたという姓名判断に委ねた結果、

沖紘子の名付けで「松田聖子」に決まったという説もある。

11月、ニッポン放送「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のパーソナリティ

「パンチ・ガール」のオーディションに合格し、翌年1月からレギュラー出演開始した

12月には、日本テレビ系系ドラマ『おだいじに』にレギュラー出演(女優デビュー)。

ドラマの撮影シーンで、サンミュージックの先輩でもある大川陽介とのキスシーンがあり、

聖子にとってはそれがファーストキスであったという。法子は自分の芸名の「松田聖子」を

そのままドラマの役名にしてもらった

そして、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションを12月に受け、

一次審査の面接、二次審査の水着での踊りに合格するが、最終審査のテスト撮影で

どうしてもエクボが出なかったため不合格となる(選ばれたのは、同じく新人タレントの山田由紀子)聖子は「エクボ」以前にもアイスクリームのCM出演オーディションも受けていたが落ちていた

資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルには不合格になったが、サンミュージックの相澤社長の陳情で「エクボ」のCMのイメージソングの歌唱起用が1989年2月に決定し、同年4月1日、

「エクボ」のCMイメージソング「裸足の季節」で歌手デビュー

なお、相澤社長は聖子にビジュアル的な面を期待しておらず、

もっぱら歌だけでやっていこうと考えていたためCM出演させなかったとも語っている

偶然にも、1970年代を代表するアイドル山口百恵が引退する年の1980年に、

聖子はレコードデビューすることになった

聖子の「裸足の季節」の歌声はCMで頻繁に流れたものの、当初は顔と名前の浸透度が低く、

CM映像に出演した山田由紀子と2人で行ったCMイベントのサイン会でも聖子の前には誰も並ばず、「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。

それから程なくしてテレビの歌番組などに聖子が登場するようになると瞬く間に人気が沸騰した

デビュー当時のキャッチフレーズは「抱きしめたい! ミス・ソニー」。

テレビCMで流れる聖子の歌声を初めて耳にした松本隆

(のちに聖子の歌う楽曲の作詞を手掛けることになる作詞家)は直感的に、

「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がした」という

ジャケット写真で、歌っているのがCMの山田由紀子ではないと分かっても、

その声量のある魅力的な声でレコードは売れ始める

同年4月から、NHK総合『レッツゴーヤング』にサンデーズのメンバーとして

レギュラー出演が始まり、「裸足の季節」で、フジテレビ『夜のヒットスタジオ』に初登場。

TBS『ザ・ベストテン』の「スポットライト」コーナーにも第11位だったが初登場した。

同年8月には、2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で、TBS『ザ・ベストテン』に第8位で

初ランクした

9月、「青い珊瑚礁」は『ザ・ベストテン』での第1位を初めて獲得した

(オリコンチャートでは最高第2位)。9月25日の『ザ・ベストテン』で「青い珊瑚礁」が

2週連続第1位となり、「さよならの向こう側」で10位にランクインした山口百恵と初共演した。

同番組では70年代と80年代を代表するアイドルの最初で最後の共演となった。

同年10月発売の 3枚目のシングル「風は秋色」は、初のオリコン・ヒットチャート第1位を獲得。

前曲の「青い珊瑚礁」で、1980年末の第22回日本レコード大賞の新人賞を受賞。

第31回NHK紅白歌合戦にも初出場した

その後にリリースした楽曲も伸びのある透明な歌声で続けざまに大ヒットし、

聖子の人気はうなぎ登りとなった。その「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿も

注目され、彼女のセミロングのふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「聖子ちゃんカット」と

呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖

子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した

声質もデビュー間もない頃の声量のある力強い声から、酷使によりやや声がハスキーな色合いを

帯びてからも、それを逆に活かした「赤いスイートピー」、「スイートメモリーズ」などの

代表曲が生れた。当時の事務所の社長であった相澤秀禎は、

ファンが欲しているものをその場で判断して、それにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の

速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が

松田聖子という歌手を完成させたと語っている

「SWEET MEMORIES」は、元は「ガラスの林檎」のB面で、サントリーの缶ビールのCM曲だった。CM使用部分は英語詞の部分で、当初は「歌・松田聖子」のテロップ無しだったため、

「誰が歌っているのか?」という問い合わせや反響が相次いだ。

そして発売から約2か月後に『夜のヒットスタジオ』でテレビ番組では初めてこの曲を

フルコーラスで披露したところ、この曲にも俄然スポットライトが当たるようになった。

「SWEET MEMORIES」は後年、多くのアーティストにカバーされるほどの定番曲となる。

 

 

 

 

2011年には、女性アーティストからの楽曲提供は尾崎亜美以来26年ぶりとなる、

竹内まりや作詞・作曲のシングル「特別な恋人」がオリコンチャート14位となった。

私生活では、2012年6月に、同世代の大学准教授(歯科医)と3度目の結婚。

2015年には、デビュー35周年記念のシングルとして、「時間の国のアリス」以来31年ぶりに

松本隆と呉田軽穂(松任谷由美)のコンビによる 「永遠のもっと果てまで/惑星になりたい」

が発売されてチャート11位となった。

2016年にはYOSHIKI作詞・作曲のシングル「薔薇のように咲いて桜のように散って」が

チャート6位のヒットとなった。

 

 

聖子ちゃん懐かしい。 今でも 美しい歌声ですね。

カラオケだと、いつも聖子ちゃんの曲うたってました。

赤いスイートピー、ガラスの林檎、裸足のマーメイド・・・。

 

今度カラオケいったら、まだ歌えるかなあ?

最近、音程ずれてる^^;

 

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プロフィール

 

佐谷亜理

 

東海大学理学部情報数理学科卒

社会にでて、

プログラマーをめざすも

挫折。

いくつかの職業をへて

自営業を起業

2010年からネットビジネスを始める。

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